2019/12/20

革命はまだ終わらない / The Revolution continues

12月19日でスーダンは革命開始から一年を迎えました。19日当日は、首都ハルツームでは革命の犠牲者を追悼するようなイベントがあったり、革命一周年を祝って多数の人が集まっていたようです。

ちょうど11月の終わりの頃に、ハルツームからナイル川を挟んで北にあるBahriという地区にある、Sudan Peace and Music Festivalというのに友人何人かと行ってきました。これは有志のスーダンの若者アーティストたち数人が企画して、音楽や芸術を通してスーダンの革命を祝福するというような趣旨のイベントでした。

開始予定の時間にこういうイベントは始まった試しがないので(笑)、開始から1時間半程経って行ってみたけど、まだ準備中みたいな感じで(やっぱり・・・)、待っている間に一緒に行った友人が主催者アーティスト一人の知り合いってことで、彼が親切に私たちグループにイベント会場の案内をしてくれました。

彼は革命中に軍からの襲撃に遭い、銃の弾丸が自分をかすったが、親友に当たって親友が命を落としたと言っていました。そう語る彼の瞳は涙ぐんでいました。その親友以外にもたくさん革命中に命をなくしたスーダン人はおり、その人たちを称えるために、フェスティバルの会場に革命の犠牲者を追悼するための壁画があったり、植林をする活動が行われてました。植林の際には、命を落とした犠牲となったとある若者のお母さんによるスピーチがありました。

主催者の親友で、革命中に命を落とした若者の肖像画



メッセージを自由に描けるようになっている


会場で演奏される音楽もジャンルは様々で、スーダンの民族音楽グループもあれば、ラジオ局の有名なDJによる西洋風の音楽も流れれば、スーダン人によるレゲエグループの演奏などもあり、時間が遅くなればなるほど会場は盛り上がりを増していきました。その中でも印象的だったのは、スーダンでの革命に関して歌った一曲のYoutubeのビデオが流れた時。これまで流れてた音楽とは曲想が異なり、会場で元気に踊っていた若者も一気に静かになり、携帯でライトを照らし手を掲げ、左右に曲と合わせて降っていました。近くにいた女性が突然地面に崩れ落ち、その周りで彼女を支えるように囲む人たち。何事かと思って見ていたら、どうやらこの音楽は革命で亡くなった犠牲者たちがプロモーションビデオの一部になっているようで、巨大画面で映される映像を見て初めてわかりました。その場で泣き崩れ落ちた女性は、おそらく誰か親しい人を革命で亡くした人なんだと察しました。そのプロモーションビデオはこちら↓



2019年9月には新政権が発足し、情勢もだいぶ安定し、2018年12月〜2019年6月までにあったような大規模なデモや、道路封鎖や軍の戦車、タイヤがあちこちで燃やされたり、催涙ガスがあちこちで撒かれていたことが、今では信じられないいくらいほとんど落ち着いたけど、スーダン人の多くにとっては、まだ革命は続いているということを、この音楽イベントでひしひしと感じました。

このような音楽・芸術イベントをスーダンで若者が開催すること自体が、前政権では難しかったけれども、新政権ではこのように若者が自由に表現をできるような場が増えていったらいいなと思います。そして、スーダンの若いアーティストたちの今後の活躍にも期待したいところです。

2019/11/10

ポートスーダン / Port Sudan

スーダンで働いています、と日本で言うと、南スーダンに自衛隊が派遣されていたこともあったせいか、よく南スーダンと間違えられ、「え、大丈夫ですか?」とか心配されたりと、スーダンと言うと多分あまりイメージが沸かない、あるいは湧いたとしても「戦争・紛争」などネガティブなイメージが多い人がほとんどな印象を受けます(少なくとも日本ではそのように感じる)。

でも、実際にスーダンに来てみると、人や優しくホスピタリティに溢れているし、治安はわりと良いし、自然は豊かで、歴史的建造物(ピラミッド)などもあり、意外と住みやすいと感じています(まあ確かにこの一個前に書いた記事のように、情勢悪化による国外退避の経験もあったにしても・・・。)

その見所の一つとして、紅海に面する町ポートスーダンの沖に、サンガネーブと言う、灯台とその周りのサンゴ礁とエメラルドグリーンの海があるエリアがあります。スーダンに赴任する前に、先輩JPOに写真を見せてもらって、「え、こんなの嘘でしょ?」と若干半信半疑だったのですが(笑)、ちょうど数週間前に実際に行ってみることができました!

ポートスーダンからクルーズ船に乗って、約3時間ほどのところにあるサンガネーブ。海のど真ん中にポツンと立つ灯台から少し離れた沖にアンカーを下ろし、ゴムボートで灯台へ向かって行くと、海が物凄い透き通った青だと言うのがよく分かります!
灯台が遠くに見える

ゴムボートで灯台へ向かう途中。海が物凄い青なのがよくわかる!

サンゴ礁がある部分は浅瀬になっていて、水がエメラルドグリーンに見える

灯台の近くまでくると周りはサンゴ礁がたくさんあって、かなり浅くなっているのがよく分かります。



この灯台は登ることができるので、長ーい螺旋階段をずっと登っていくと・・・・

この景色!

上から見た景色はあまりにも綺麗すぎて、灯台を上がるための螺旋階段のしんどさなんてとっくに忘れてしまうくらい!

あたりの海は本当に透き通っていて、シュノーケルでも十分に熱帯魚がたっくさん見える!

そして、灯台から見る夕陽も素晴らしい!
夕陽の手前には私たちが乗ってきたゴムボートが二艘

このオレンジと青の対象、半端じゃない美しさだった・・・



そして、レアな夕暮れ時の灯台上から見るサンガネーブも素晴らしい。。。ずっとおりたくないくらいに綺麗でした・・・。
海面に反射する月明かりがとても神秘的


翌日はサンガネーブからポートスーダン寄りに移動したところにある、第二次世界大戦中にイタリア軍があえて沈没させた船が沈んでいるところでシュノーケリング。
分かりにくいけど、私の下にあるのが沈没船

ポートスーダンに詳しい友人に聞いたところ、第二次世界大戦中にイタリア軍は、イギリス配下にあったスーダンの東を航海を通ってエリトリアに船で航行中、イタリアがイギリスに戦争で負けたことが判明。イギリス軍に攻撃され、船の財産などを持っていかれるくらいならば、自分たちで船を沈めた方が良いとの判断で、通過中だったポートスーダン沖に船を沈没させたそうです(なので、ここで亡くなった人はいないそうです、幽霊船とかだったら怖かったけど・・・)。


・・・いかがでしょうか?スーダンのネガティブなイメージは吹き飛んだでしょうか?(笑)

過去に船で働く仕事をしていたために、これまでに約60か国以上を訪問してますが、ポートスーダンのサンガネーブで見た海は、これまで見た海で一番綺麗でした。

そしてすごいのは、通常ここにはほとんど誰も来ないこと。観光地化されていないこともあって、行くのはスーダン在住外国人程度(?)私たちが行った時も、他のグループはほとんど誰もいませんでした(小さな船で灯台付近まで来ていたグループがあったくらい)。

このエメラルドグリーンと真っ青な海、一度経験したら病みつきになりそうなくらい綺麗です。

2019/07/05

エチオピアへの国外退避🇪🇹 / Evacuation to Ethiopia

前回4月にブログを更新した時は、ちょうどスーダンの元大統領のオマール・バシールが退陣した頃でしたが、その後も国内では軍の暫定政府に反対し、民主主義に基づいた文民による国の統治を求めてデモが続いていました。4月下旬頃には、市民が首都ハルツームにある軍本部の前で座り込みを始め、ラマダン(断食の月)だというのにも関わらず、炎天下の中座り込みを続ける人は多数に増え、座り込みの人たちに水や薬までを手渡すボランティア、お茶屋さんを開く女性たち、グラフィティを壁に描くアーティストたちや音楽隊の演奏などで、まるでお祭りのような雰囲気に変わっていました。しかし、ラマダンが終わる1日前である6月3日の早朝、座り込みをする人たちを強制排除するために、政府の軍が座り込みをする人たちに発砲し多数が亡くなったり、負傷しました

その日は早朝から事務所から全スタッフにメールが来ており、「軍による発砲があったためにスタッフは外出を控え、自宅で勤務するように」という指示がありました。昼間には、家のベランダから、遠くから真っ黒な黒煙が見えたり(軍の暫定政府に反対するためにタイヤを燃やしている)して、物騒な雰囲気になってきました。その日の夜から実は私はウガンダに休暇に行く予定でしたが、昼になる頃にはスーダンの空港や港が閉鎖されたなどの情報が入ってきていました。午後3時くらいからは、政府によってインターネットが遮断され、何も情報が入ってこなくなりました。同日、スーダンにおける国連機関内の緊急会議が開かれ、オペレーションを継続するために最低限必要なスタッフ以外を除いて、インターナショナルスタッフを全て国外退避させる決定が下されました。しかし、ネットが遮断されたために、事務所から全スタッフに送られていた退避決定のメールを私は読むことができず、国外退避を知らされたのは翌日4日でした。

3日の晩、自分が搭乗予定だったフライトが飛んでいるかもわからず、ダメもと空港へ向かってみたのですが、やっぱりフライトは欠航。空港会社に、「あなたの便は24時間後の便に延期となった」と言われたので、仕方なく自宅へ真夜中戻ってきました(実はこの日は皆、軍による更なる襲撃を恐れたり、道が封鎖されていたこともあって、道にもほとんど人も車もおらず、空港へ行くのも自宅へ帰るのも大変だった)。

4日の日中にやっと事務所の総務スタッフから連絡があり、国外退避の対象になるために、退避のための荷物を準備するようにと告げられました。私はその日の晩に延期になった前日のフライトに乗って出国し、元々休暇を取る予定だったウガンダで数日過ごし、その後退避先であるエチオピアの首都アディスアベバに合流すると伝えました。シリアなどから国外退避を数回経験したことがあるとある同僚は、「私は過去にシリアから退避した時に、一時的退避だと思って荷物を持って出国したけど、後になって戻れなくなったから、退避の荷物以外に置いていく荷物も出来るだけ箱やスーツケースにまとめて一つの場所に置いておくことをおすすめする」と言われ、急遽ウガンダに休暇で持っていく以外の、アパートにあるほぼ全部の荷物もまとめることに。急に、もしかするとスーダンにもうすぐには戻ってこれないのかもしれないと思うと、自分の住み慣れたアパートの荷物をまとめるのはとても切ない気持ちになりました。

ちなみにこの日は日中には私の自宅のすぐ近くでも銃を発砲する音が聞こえ、生まれて初めて銃声を聞いて床に伏せました。

結局、その日4日の晩のフライトも欠航になったことが判明し、翌日5日の午後の便に振り替えることになりました。何人ものタクシー運転手に電話し、やっとこさ空港に連れて行ってくれるタクシー運転手を見つけ、無事に5日の午後にウガンダへ出国することができました。ウガンダに着いたのは日を超えて6日の深夜。ウガンダに住む友人が手配してくれたタクシー運転手が空港まで迎えに来てくれており、無事に運転手と合流し、友人の家まで向かう深夜の道で、まだ若干興奮気味に運転手にスーダンの状況ややっとのこさ出国してきたことを伝えたのを今でもよく覚えています。そして深夜3時近くにやっと首都カンパラにある友人宅へ到着。その時にどれだけホッとしたことか。。。。(遅くまで仮眠しながら私の到着を待っていてくれたK夫妻には本当に感謝です)。

本当は友人たちとウガンダでラフティングに行くことを予定していたのですが、上記の通り、元々乗る予定だったフライトは欠航になったので、もちろんラフティングは行けず(涙)、その代わり1日だけ休暇を延長し、首都カンパラで4日間過ごしました。滞在期間は短かったけど、ウガンダ人の友人や、カンパラで働く日本人友人などと会うことができました。でも頭の中は、置いてきた家の愛猫のことや、休暇の後に退避中の同僚と合流する予定のエチオピアへ行くための手続きなどで頭がいっぱいで、正直100%楽しむことができませんでした。でも、そんな中美味しい手料理を作ってくれたり、カンパラの素敵なお店などを案内してくれたK夫妻、そして1日中カンパラ散策に付き合ってくれたウガンダ人の友人のおかげで、充実した滞在を過ごすことができました。



カンパラ・セントラル・モスクのタワーから見た眺め

幾何学模様がとても綺麗












































そして、カンパラでの滞在もあっという間に過ぎ、退避した同僚がいるエチオピアの首都アディスアベバへ。同僚が滞在するホテルに到着した頃は、数日前に既にチャーター便でスーダンからアディスへ退避した同僚は既に殆どが自国へ一時帰国しており、残っていたのは4人くらいしかいませんでした(スーダンから指定先のアディスまでは退避手続きの対象となるが、その後退避が解除になるまでの期間は、自国へ戻って遠隔で仕事をするか、アディスに残るか選ぶことができる)。

私は当初は国外退避は2週間の予定だと事務所から聞いていたので、日本に帰るには期間が短すぎるし、どうせ近いうちにエチオピアに旅行に来たいと思っていたので、退避中にエチオピアから遠隔で勤務するのは悪くないと思い、エチオピアに残ることに決めました。

アディスにあるUNHCR事務所に翌日から他の同僚3人と出勤し、幸い空いているパソコンと机を借りることができたので、スーダンから持ってきた仕事はそこから遠隔で行なっていました。エチオピア国内だけでもかなり見所があることがわかり、週末にはラリベラという岩に掘った教会がある地域まで旅行することができました。本当はもっと国内旅行したいくらいだったけど、標高が2400mほどあるので体が標高に慣れるまで時間がかかったり、一緒に旅行した同僚3人が旅行先のラリベラで食中毒になり、アディスに戻ってからダウンしたりと(私のみ無事だった、苦笑)、思ったよりも国内旅行はできなかったけど、アディス市内の観光したりと、わりとアディス滞在も楽しむことができました。
キリストの教えを宣教する神父と、それを繰り返し唱える若者の信者たち

この日は日曜日(キリスト教の聖なる日)だったために、白い衣を羽織った人たちがたくさんお祈りに来ていた。






教会の周りにある岩穴の中には、神父たちが住んでいたとか。
一部の穴には実際にミイラ化した神父の姿があった。


コーヒーで有名なエチオピア。コーヒーを右のポットで沸かし、中央の小さなカップに入れて振る舞う。
ちなみに、左側にある籠がモロッコにある籠ととっても似ていて、
国は離れているのに同じような手工芸品があるのは興味深い。













エチオピアで見つけた籠。
モロッコでもスーダンでも似たような籠が売っている。

モロッコでも似たようなショールがたくさん売っている。
モロッコではサブラというサボテンの繊維からなる光沢のある糸を
使っているけど、エチオピアのは何でできているのだろう。。


ディナーショーで見たエチオピアの各地の民族ダンス。
いろんな衣装やダンスがあって、面白い。




しかし、私たちが滞在中になんと全国規模の高校試験でのカンニングを防止するために、政府がネットを遮断したり、アディスとアムハラ地域におけるクーデター未遂が起こって要人が殺害されたために再びネットが遮断されたりと、スーダンからやっとの思いで脱出したうちらにも関わらず、エチオピアでも不自由な生活を過ごす羽目になりました(苦笑)。おまけに、クーデター未遂が起こった翌日は、スーダン事務所から安否確認の連絡があり、「状況によってはケニアのナイロビへの退避も検討しろ」という提案まであり、もう勘弁してくれよという感じでした(最終的には情勢悪化はなかったためにナイロビへの退避の案は却下になりましたが)。

そして元々2週間のみと言われていた退避期間は1ヶ月に延長となり、合計1ヶ月間アディスに滞在することになりました。その間、偶然にも日本UNHCR協会のエチオピア出張が私の滞在と重なり、それに同行することとなっていたUNHCR駐日事務所で働く私の大学院時代の先輩となんとアディスで再会!世界は狭いものです(笑)。幸い、UNHCR協会の御一行さんがアディス市内での難民を支援する団体を視察する際に私も一部同行させていただくことができ、南スーダンやソマリア、エリトリアから逃れてきた難民の証言を一緒に聞かせて頂くことができました。普段の仕事であまり直接難民と接する機会がないので、このような機会を得られたのは不幸中の幸いでした。

そして無事に7月5日はスーダンに戻れることが決まり、自分の住む首都ハルツームに到着した時はすごく嬉しい気持ちになりました(普段はスーダンに戻ってくる時は休暇のあととかであまり嬉しい気分じゃないけど、今回は本当に故郷に戻ってきたかのようで嬉しかった!)家に置いてきた愛猫のサミラにもやっと会えてほっとしました。



今後は情勢が落ち着いて、国民が願う民主的政治や経済成長が果たせることを祈っています。

2019/04/12

スーダン🇸🇩に赴任して1年が経ちました / It's been 1 year in Sudan

私が去年2018年4月13日にスーダンに赴任してから、ちょうど一年が経ちました。

去年スーダンに着いた時も、今日2019年4月12日と同じくらいに暑くって、毎日40度を超える灼熱の陽気の中、毎日汗だくで事務所に向かっていたことを思い出します。

振り返ると、UNHCRハルツーム事務所で過ごしたJPO1年目は結構あっという間に過ぎていきました。ハルツームでの生活は意外と過ごしやすく、娯楽はあまりないし、一年のうち半年以上は35度以上暑い日々が続くけど、でもいろんな国から集まる愉快な同僚たちや、日本人駐在者たちとの交流があるおかげで、わりと楽しく過ごせています。

仕事も、幸い良い上司や同僚に恵まれて、特に大きな問題なくやることができています。

さて、すでにほとんどの人が知っているとは思いますが、昨日4月11日にスーダンではクーデターが起こり、30年近く独裁政権を続けていたバシール大統領が退陣することになりました。去年12月19日から、元々はパンや物価の高騰で不満が溜まった国民がデモを始めましたが、そのうちバシール大統領の退陣を求める政治的デモに変わりました。その後、4ヶ月間に渡ってデモはあちこちで続いていたのですが、2019年4月6日以降は特にデモの規模はこれまでの最大級となり、4月11日に国民側に共感した軍がバシール大統領を拘束し、退陣に至ったのです(デモの発端からクーデターに至るまでの詳細は、こちらの記事をご覧ください)。

しかし、11日午後に軍の首脳・防衛大臣(※1)が発表したのは、軍の暫定評議会による2年間の統治であり、市民が求めていた市民を含んだ民主的な評議会とは異なるもので、これでは全く政権は変わっていないと、市民は不満を抱えたままです。11日から適用される1ヶ月間の夜間外出禁止令(22時〜4時)(※2)を無視してでも、市民は軍本部の前で座り込みを夜間も続けているようです。
(※1【12日夜更新】:このブログ記事を投稿した約2時間後、現地時間22時頃に、この軍の首脳がTV放送で、辞任を発表しました。うちから5kmほど離れたところにあるデモが続けられている軍本部前の方向からはその瞬間に大きな歓声が上がり、その後クラクションを鳴らしたり喜びの声が街には響いています←完全に外出禁止令をみんな無視、笑)
(※2【13日夜更新】:13日には上記の12日の首脳辞任に伴い、夜間外出禁止令も解除になりました。)

私の自宅からUNHCRハルツーム事務所までは徒歩で7分程ですが、その途中の道にも今日には多数の銃やロケット弾のようなものをトラックに積んで待機している軍人がたくさんいて、かなり異様な雰囲気を醸し出しています。とりあえず私は国連やUNHCRから全体メールに随時流れる安全連絡メールを確認して指示にしたがっているので、特に危ない目にあったりすることはないですが、今後どうなるかわからないので不安は続きます。

昨日11日から24時間封鎖されていた空港は今日12日には再開し、一部の国の大使館の駐在員や政府関係の職員は国外退避を始めたところもあるそうです(現時点では、国連では国外退避の指示は出ていません)。

ちなみに、4月8日夕方頃からクーデターが起こる11日朝まではソーシャルメディアも全然使えなくなり、自分の居場所が特定できるIPアドレスを隠すためのアプリのVPNもほとんど機能しない状態に陥ってました。そのために、FacebookやWhat'sApp、LINEなどで連絡を取り合っていた友人や同僚とはスムーズに連絡が取れなくなりました。クーデターが起こったであろうと思われる11日朝から再びソーシャルメディアも使えるようになりましたが、状況によってはまた今後完全にブロックされる場合もあるかもしれません。その場合は、またソーシャルメディアを使った連絡が難しくなるかもしれないので、ここでお伝えしておきます。

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ちなみに、4月12日は私が今から20年前(1999年)に、イギリスに長期留学をし始めた日でもあります。出発する日、しぶしぶ私を見送る父が玄関で、「留学するからには、1番を目指せ」と活を入れたことを今でも覚えています。まあやること全てで一番になることはできませんが、その頃は父も私本人も、まさかその20年後には私が国連で、そしてスーダンで働いていていて、おまけにその国でのクーデターに出くわすとは想像もしていなかったですね(笑)。今では私が国連で働くことに誇りを持ってくれているようです。まあ確かに1999年から2009年までのイギリス留学経験がなかったら、おそらく今の私はいないでしょうね。ということで、イギリス留学を始め、その後もずっと私のやりたいことをさせてくれる両親に感謝です。