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2020/06/13

スーダン🇸🇩での任務を終えました / Finished my assignment in Sudan 🇸🇩

半年ぶりのブログ更新ですが、5月31日でUNHCRスーダン事務所での任務を終えて、6月8日にはスーダンを出国しました。

2018年4月にJPOとしてUNHCRスーダンの首都ハルツーム事務所に着任して、あっという間に2年間が経ちました。最初一年はわりと順調に始まり、職場での上司や同僚にも恵まれて、楽しい思い出がほとんどなんですが、2年目になる頃からスーダンの情勢が不安定となり、2018年12月末に始まったパンの価格高騰から始まった反政府の大規模デモ、そして翌年19年4月の元バシール大統領の退陣とその後に発足した暫定政府、そして同年6月にはハルツームでも100人以上が犠牲になったとされる市民に対する治安の悪化(銃撃や棒で殴るなどの暴力や怪我をしたデモ参加者の治療を行う医療従事者に対する暴力やレイプなど。うちの近くでも銃声が何度か聞こえた)に伴った突然の国外退避(これに関しては過去のブログ投稿にも書いているので詳細はそちらを参照)などがありました。隣国エチオピアに1ヶ月退避して、やっとハルツームに帰れたのは7月。帰った後くらいから部署内の人事の変化などから新しい役割も与えられて、特に2019年10月から2020年3月頃までは、仕事以外あまり何やってたか記憶にないくらいに忙しかったですね(笑)。

実は2019年11月にハルツーム事務所のスタッフアソシエーション(スタッフ組合みたいな感じ?)の役員選挙に出馬するように同僚からノミネートを受け、まあ役員の一員くらいならいっか、と軽い思いで返事したら、なんと選挙で最大多数の投票を受けて、会長になってしまいました(笑)。まあボチボチやればいっか、と思っていたら、その直後に難民高等弁務官補佐などVIPのスーダン訪問や、2020年3月には難民高等弁務官のスーダン訪問などがあり、全スタッフを代表してスタッフの声(人事や福利厚生に関して伝えたいこと)を述べるなどの大役(?)がまわってきて、かなり大変な時期もありました。

そんな中で、スーダン(というか99%程度はハルツームにしかいなかった)での2年間では、学びが多く、UNHCRスタッフとして初めて働いたところだったので、やり方とかも最初は全くわかりませんでしたが、同僚や上司のおかげで色々と経験させてもらいました。本当はダルフールや白ナイル州、コルドファン州など、自分が担当していた地域にもっと出張行きたかったんですが、残念ながら2年間で一度しか地方への出張いけず、これに関しては悔しかったですね(本当はその他ダルフールと白ナイル州への出張機会があったのだが、ちょうど移動許可証の更新時期で、革命直後の政府機関は半分機能していなくて、更新が間に合わなかったので、同僚のみ出張に行った、という。。。涙)。ということで、ほとんど現場の仕事を味わていなかったので、唯一現場っぽい仕事に参加させてもらったのは、ハルツーム郊外にあるOpen Areaと呼ばれる南スーダン難民が自主的に集まって住み込んでいる地域で行われた物資配布のみでした。1日だけだったけど、直接難民の方々に物資を配布したり、難民登録の作業を手伝わせてもらえて、普段のデスクワークだけではわからなかったことを、現場の状況を見ることによって初めてより理解することができたので、やっぱり現場に行って自分の目で現場の状況を確認したり、難民の方々と接するのは大事だなと思いました。
物資をトラックから下ろす人たちに指示を出す
UNHCR物資担当のスタッフ

2019年後半からは、JPOの任期が残すところあと半年ということもあってその後にUNHCRに残るために正規職員のポストに応募を始めたんですが、その数ヶ月間は何にも音沙汰なく、(仕方なく)ダメ元で2020年1月にとあるUNHCRの緊急支援のポストに応募したら、なんと2月には合格結果通知がきて(!)、ショックを受けたのでした(詳細はこのあとの投稿に書きます)。

なのでJPOの2年目が終わる4月には新しいポストに着任できるように準備進めてたんですが、新型コロナの影響でスーダンは3月中旬から国境封鎖、そして自宅からのテレワークが始まり、新しいポストに着任するのも難しくなり、とりあえず着任できるようになるまで一時的に2ヶ月間UNHCRスーダン事務所で短期雇用スタッフとして延長することになったのでした。

このテレワークの間、私が2018年11月に養子に迎えた愛猫サミラ(元々事務所にいた野良猫)とは更に仲良くなり、朝起きると私の髪の毛の中で寝ているなど、面白い写真やエピソードがたくさん増えました(笑)。
おすましサミラ

イナバウアー並に沿って寝ている

テレワーク中、よく邪魔しにきた

サミラの好きな寝る格好
よくお腹丸出しで寝てる

こちらもお腹丸出し、笑


でも正規職員のポストが決まっているのにいつまでもハルツーム事務所で短期雇用で仕事を続けるわけにもいかないので、6月1日からテレワークで新しい事務所の仕事を始め、新しい上司の合意を得て、ハルツームからでなく日本からテレワークをさせてもらうことになったので、無事にスーダンを出発して日本に一時帰国することになりました。
スーダン国内移動でもよく使われている
WFPの人道支援サービスの飛行機(UNHAS)。
これに乗って国内出張行くことに若干憧れていたけど、
結局それは今回は最後まで叶わず。
まさか出国する時に乗ることになるとは。。。

ハルツームらしい色と風景。砂っぽい。笑。ちなみに、この日の午後、ハブーブ(砂嵐)だったらしい。

2年間いたところをいざ去るとなると、寂しい・・・。
奥に見えるのは雄大なナイル川

コロナの影響で、お世話になったスタッフなどにもちゃんと挨拶できずに離任するのは残念でしたが、スーダン人やその他同僚などの暖かいサポートがあったからこそ、スーダンでの任期を無事に終えられたのだと思います。

ナイル川の水を飲んだ者はナイルへまた戻る、というような言い伝えがあるそうで、実際にスーダンにいた外国人の多くがスーダンへそのあとも戻ってきているので、私もナイルの水は飲んだかわからないけど、また戻れることを祈っています!

شكرا السودان

2019/07/05

エチオピアへの国外退避🇪🇹 / Evacuation to Ethiopia

前回4月にブログを更新した時は、ちょうどスーダンの元大統領のオマール・バシールが退陣した頃でしたが、その後も国内では軍の暫定政府に反対し、民主主義に基づいた文民による国の統治を求めてデモが続いていました。4月下旬頃には、市民が首都ハルツームにある軍本部の前で座り込みを始め、ラマダン(断食の月)だというのにも関わらず、炎天下の中座り込みを続ける人は多数に増え、座り込みの人たちに水や薬までを手渡すボランティア、お茶屋さんを開く女性たち、グラフィティを壁に描くアーティストたちや音楽隊の演奏などで、まるでお祭りのような雰囲気に変わっていました。しかし、ラマダンが終わる1日前である6月3日の早朝、座り込みをする人たちを強制排除するために、政府の軍が座り込みをする人たちに発砲し多数が亡くなったり、負傷しました

その日は早朝から事務所から全スタッフにメールが来ており、「軍による発砲があったためにスタッフは外出を控え、自宅で勤務するように」という指示がありました。昼間には、家のベランダから、遠くから真っ黒な黒煙が見えたり(軍の暫定政府に反対するためにタイヤを燃やしている)して、物騒な雰囲気になってきました。その日の夜から実は私はウガンダに休暇に行く予定でしたが、昼になる頃にはスーダンの空港や港が閉鎖されたなどの情報が入ってきていました。午後3時くらいからは、政府によってインターネットが遮断され、何も情報が入ってこなくなりました。同日、スーダンにおける国連機関内の緊急会議が開かれ、オペレーションを継続するために最低限必要なスタッフ以外を除いて、インターナショナルスタッフを全て国外退避させる決定が下されました。しかし、ネットが遮断されたために、事務所から全スタッフに送られていた退避決定のメールを私は読むことができず、国外退避を知らされたのは翌日4日でした。

3日の晩、自分が搭乗予定だったフライトが飛んでいるかもわからず、ダメもと空港へ向かってみたのですが、やっぱりフライトは欠航。空港会社に、「あなたの便は24時間後の便に延期となった」と言われたので、仕方なく自宅へ真夜中戻ってきました(実はこの日は皆、軍による更なる襲撃を恐れたり、道が封鎖されていたこともあって、道にもほとんど人も車もおらず、空港へ行くのも自宅へ帰るのも大変だった)。

4日の日中にやっと事務所の総務スタッフから連絡があり、国外退避の対象になるために、退避のための荷物を準備するようにと告げられました。私はその日の晩に延期になった前日のフライトに乗って出国し、元々休暇を取る予定だったウガンダで数日過ごし、その後退避先であるエチオピアの首都アディスアベバに合流すると伝えました。シリアなどから国外退避を数回経験したことがあるとある同僚は、「私は過去にシリアから退避した時に、一時的退避だと思って荷物を持って出国したけど、後になって戻れなくなったから、退避の荷物以外に置いていく荷物も出来るだけ箱やスーツケースにまとめて一つの場所に置いておくことをおすすめする」と言われ、急遽ウガンダに休暇で持っていく以外の、アパートにあるほぼ全部の荷物もまとめることに。急に、もしかするとスーダンにもうすぐには戻ってこれないのかもしれないと思うと、自分の住み慣れたアパートの荷物をまとめるのはとても切ない気持ちになりました。

ちなみにこの日は日中には私の自宅のすぐ近くでも銃を発砲する音が聞こえ、生まれて初めて銃声を聞いて床に伏せました。

結局、その日4日の晩のフライトも欠航になったことが判明し、翌日5日の午後の便に振り替えることになりました。何人ものタクシー運転手に電話し、やっとこさ空港に連れて行ってくれるタクシー運転手を見つけ、無事に5日の午後にウガンダへ出国することができました。ウガンダに着いたのは日を超えて6日の深夜。ウガンダに住む友人が手配してくれたタクシー運転手が空港まで迎えに来てくれており、無事に運転手と合流し、友人の家まで向かう深夜の道で、まだ若干興奮気味に運転手にスーダンの状況ややっとのこさ出国してきたことを伝えたのを今でもよく覚えています。そして深夜3時近くにやっと首都カンパラにある友人宅へ到着。その時にどれだけホッとしたことか。。。。(遅くまで仮眠しながら私の到着を待っていてくれたK夫妻には本当に感謝です)。

本当は友人たちとウガンダでラフティングに行くことを予定していたのですが、上記の通り、元々乗る予定だったフライトは欠航になったので、もちろんラフティングは行けず(涙)、その代わり1日だけ休暇を延長し、首都カンパラで4日間過ごしました。滞在期間は短かったけど、ウガンダ人の友人や、カンパラで働く日本人友人などと会うことができました。でも頭の中は、置いてきた家の愛猫のことや、休暇の後に退避中の同僚と合流する予定のエチオピアへ行くための手続きなどで頭がいっぱいで、正直100%楽しむことができませんでした。でも、そんな中美味しい手料理を作ってくれたり、カンパラの素敵なお店などを案内してくれたK夫妻、そして1日中カンパラ散策に付き合ってくれたウガンダ人の友人のおかげで、充実した滞在を過ごすことができました。



カンパラ・セントラル・モスクのタワーから見た眺め

幾何学模様がとても綺麗












































そして、カンパラでの滞在もあっという間に過ぎ、退避した同僚がいるエチオピアの首都アディスアベバへ。同僚が滞在するホテルに到着した頃は、数日前に既にチャーター便でスーダンからアディスへ退避した同僚は既に殆どが自国へ一時帰国しており、残っていたのは4人くらいしかいませんでした(スーダンから指定先のアディスまでは退避手続きの対象となるが、その後退避が解除になるまでの期間は、自国へ戻って遠隔で仕事をするか、アディスに残るか選ぶことができる)。

私は当初は国外退避は2週間の予定だと事務所から聞いていたので、日本に帰るには期間が短すぎるし、どうせ近いうちにエチオピアに旅行に来たいと思っていたので、退避中にエチオピアから遠隔で勤務するのは悪くないと思い、エチオピアに残ることに決めました。

アディスにあるUNHCR事務所に翌日から他の同僚3人と出勤し、幸い空いているパソコンと机を借りることができたので、スーダンから持ってきた仕事はそこから遠隔で行なっていました。エチオピア国内だけでもかなり見所があることがわかり、週末にはラリベラという岩に掘った教会がある地域まで旅行することができました。本当はもっと国内旅行したいくらいだったけど、標高が2400mほどあるので体が標高に慣れるまで時間がかかったり、一緒に旅行した同僚3人が旅行先のラリベラで食中毒になり、アディスに戻ってからダウンしたりと(私のみ無事だった、苦笑)、思ったよりも国内旅行はできなかったけど、アディス市内の観光したりと、わりとアディス滞在も楽しむことができました。
キリストの教えを宣教する神父と、それを繰り返し唱える若者の信者たち

この日は日曜日(キリスト教の聖なる日)だったために、白い衣を羽織った人たちがたくさんお祈りに来ていた。






教会の周りにある岩穴の中には、神父たちが住んでいたとか。
一部の穴には実際にミイラ化した神父の姿があった。


コーヒーで有名なエチオピア。コーヒーを右のポットで沸かし、中央の小さなカップに入れて振る舞う。
ちなみに、左側にある籠がモロッコにある籠ととっても似ていて、
国は離れているのに同じような手工芸品があるのは興味深い。













エチオピアで見つけた籠。
モロッコでもスーダンでも似たような籠が売っている。

モロッコでも似たようなショールがたくさん売っている。
モロッコではサブラというサボテンの繊維からなる光沢のある糸を
使っているけど、エチオピアのは何でできているのだろう。。


ディナーショーで見たエチオピアの各地の民族ダンス。
いろんな衣装やダンスがあって、面白い。




しかし、私たちが滞在中になんと全国規模の高校試験でのカンニングを防止するために、政府がネットを遮断したり、アディスとアムハラ地域におけるクーデター未遂が起こって要人が殺害されたために再びネットが遮断されたりと、スーダンからやっとの思いで脱出したうちらにも関わらず、エチオピアでも不自由な生活を過ごす羽目になりました(苦笑)。おまけに、クーデター未遂が起こった翌日は、スーダン事務所から安否確認の連絡があり、「状況によってはケニアのナイロビへの退避も検討しろ」という提案まであり、もう勘弁してくれよという感じでした(最終的には情勢悪化はなかったためにナイロビへの退避の案は却下になりましたが)。

そして元々2週間のみと言われていた退避期間は1ヶ月に延長となり、合計1ヶ月間アディスに滞在することになりました。その間、偶然にも日本UNHCR協会のエチオピア出張が私の滞在と重なり、それに同行することとなっていたUNHCR駐日事務所で働く私の大学院時代の先輩となんとアディスで再会!世界は狭いものです(笑)。幸い、UNHCR協会の御一行さんがアディス市内での難民を支援する団体を視察する際に私も一部同行させていただくことができ、南スーダンやソマリア、エリトリアから逃れてきた難民の証言を一緒に聞かせて頂くことができました。普段の仕事であまり直接難民と接する機会がないので、このような機会を得られたのは不幸中の幸いでした。

そして無事に7月5日はスーダンに戻れることが決まり、自分の住む首都ハルツームに到着した時はすごく嬉しい気持ちになりました(普段はスーダンに戻ってくる時は休暇のあととかであまり嬉しい気分じゃないけど、今回は本当に故郷に戻ってきたかのようで嬉しかった!)家に置いてきた愛猫のサミラにもやっと会えてほっとしました。



今後は情勢が落ち着いて、国民が願う民主的政治や経済成長が果たせることを祈っています。

2019/04/12

スーダン🇸🇩に赴任して1年が経ちました / It's been 1 year in Sudan

私が去年2018年4月13日にスーダンに赴任してから、ちょうど一年が経ちました。

去年スーダンに着いた時も、今日2019年4月12日と同じくらいに暑くって、毎日40度を超える灼熱の陽気の中、毎日汗だくで事務所に向かっていたことを思い出します。

振り返ると、UNHCRハルツーム事務所で過ごしたJPO1年目は結構あっという間に過ぎていきました。ハルツームでの生活は意外と過ごしやすく、娯楽はあまりないし、一年のうち半年以上は35度以上暑い日々が続くけど、でもいろんな国から集まる愉快な同僚たちや、日本人駐在者たちとの交流があるおかげで、わりと楽しく過ごせています。

仕事も、幸い良い上司や同僚に恵まれて、特に大きな問題なくやることができています。

さて、すでにほとんどの人が知っているとは思いますが、昨日4月11日にスーダンではクーデターが起こり、30年近く独裁政権を続けていたバシール大統領が退陣することになりました。去年12月19日から、元々はパンや物価の高騰で不満が溜まった国民がデモを始めましたが、そのうちバシール大統領の退陣を求める政治的デモに変わりました。その後、4ヶ月間に渡ってデモはあちこちで続いていたのですが、2019年4月6日以降は特にデモの規模はこれまでの最大級となり、4月11日に国民側に共感した軍がバシール大統領を拘束し、退陣に至ったのです(デモの発端からクーデターに至るまでの詳細は、こちらの記事をご覧ください)。

しかし、11日午後に軍の首脳・防衛大臣(※1)が発表したのは、軍の暫定評議会による2年間の統治であり、市民が求めていた市民を含んだ民主的な評議会とは異なるもので、これでは全く政権は変わっていないと、市民は不満を抱えたままです。11日から適用される1ヶ月間の夜間外出禁止令(22時〜4時)(※2)を無視してでも、市民は軍本部の前で座り込みを夜間も続けているようです。
(※1【12日夜更新】:このブログ記事を投稿した約2時間後、現地時間22時頃に、この軍の首脳がTV放送で、辞任を発表しました。うちから5kmほど離れたところにあるデモが続けられている軍本部前の方向からはその瞬間に大きな歓声が上がり、その後クラクションを鳴らしたり喜びの声が街には響いています←完全に外出禁止令をみんな無視、笑)
(※2【13日夜更新】:13日には上記の12日の首脳辞任に伴い、夜間外出禁止令も解除になりました。)

私の自宅からUNHCRハルツーム事務所までは徒歩で7分程ですが、その途中の道にも今日には多数の銃やロケット弾のようなものをトラックに積んで待機している軍人がたくさんいて、かなり異様な雰囲気を醸し出しています。とりあえず私は国連やUNHCRから全体メールに随時流れる安全連絡メールを確認して指示にしたがっているので、特に危ない目にあったりすることはないですが、今後どうなるかわからないので不安は続きます。

昨日11日から24時間封鎖されていた空港は今日12日には再開し、一部の国の大使館の駐在員や政府関係の職員は国外退避を始めたところもあるそうです(現時点では、国連では国外退避の指示は出ていません)。

ちなみに、4月8日夕方頃からクーデターが起こる11日朝まではソーシャルメディアも全然使えなくなり、自分の居場所が特定できるIPアドレスを隠すためのアプリのVPNもほとんど機能しない状態に陥ってました。そのために、FacebookやWhat'sApp、LINEなどで連絡を取り合っていた友人や同僚とはスムーズに連絡が取れなくなりました。クーデターが起こったであろうと思われる11日朝から再びソーシャルメディアも使えるようになりましたが、状況によってはまた今後完全にブロックされる場合もあるかもしれません。その場合は、またソーシャルメディアを使った連絡が難しくなるかもしれないので、ここでお伝えしておきます。

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ちなみに、4月12日は私が今から20年前(1999年)に、イギリスに長期留学をし始めた日でもあります。出発する日、しぶしぶ私を見送る父が玄関で、「留学するからには、1番を目指せ」と活を入れたことを今でも覚えています。まあやること全てで一番になることはできませんが、その頃は父も私本人も、まさかその20年後には私が国連で、そしてスーダンで働いていていて、おまけにその国でのクーデターに出くわすとは想像もしていなかったですね(笑)。今では私が国連で働くことに誇りを持ってくれているようです。まあ確かに1999年から2009年までのイギリス留学経験がなかったら、おそらく今の私はいないでしょうね。ということで、イギリス留学を始め、その後もずっと私のやりたいことをさせてくれる両親に感謝です。

2018/09/15

アラビア語学習、再び/ Re-learning Arabic

スーダンに赴任することが決まって、よし、それだったらもう一度頑張って勉強しよう!と前から思っていたことがあります。

・・・・・・・それは、アラビア語

青年海外協力隊でモロッコの村落部で2年3ヶ月活動した時は、現地ではダリジャ(アラビア語モロッコ方言)とベルベル語が使われていたので、ダリジャで日常生活や自分の活動で必要なコミュケーションはできるくらいにはなりました。その後、UNV(国連ボランティア)としてUNDP(国連開発計画)モロッコ事務所に赴任したときは、事務所での仕事はほぼ全部フランス語・・・。このブログでも過去に何度か投稿している通り、国連でのフランス語での業務にはかなり苦労し、仕事しながら語学レッスンに2年間ずっと通い、2018年2月にやっとこさDALF C1レベルの試験に合格。UNV任期中は仏語上達に専念していたこともあり、その分やろうと思っていたアラビア語の学習が全くできませんでした。

そして、今回JPOの赴任先としてスーダンと決まったので、これはアラビア語を絶対に上達させるしかない!と思っていたのでした。

ちなみに、アラビア語を既に学んだことある、またはアラビア語圏で生活したことがある人は既に知っていると思いますが、実はアラビア語と言っても、国によって話されるアラビア語はかなり違っていて、たとえば中東(エジプト、ヨルダン、レバノンなど)と北アフリカ(モロッコ、アルジェリア、チュニジアなど)で話されるアラビア語は大分違います。後者は特にフランス語やスペイン語、ベルベル語の影響を強く受けているために、単語が前者地域のアラビア語と全然違ったりします。

なので、私が2年間学んだダリジャ(アラビア語モロッコ方言)も、スーダンではほとんど通じないのです・・・(泣)。(ちなみに、以前スーダン人とモロッコ人の知り合い同士でSkype越しで話してもらったが、お互い何を言っているのかよくわからなかったそう、笑。)

ということで、モロッコ以外のアラビア語圏でも通じるアラビア語(現代標準アラビア語)を2ヶ月ほど前から勉強しています。

先生はフランス語も英語も話せるスーダン人の若い女性で、実はフランス語の先生でもあるので、私のアラビア語授業はフランス語で教えてもらっています(私のフランス語のレベルをできるだけ維持するため)。

アラビア語の文字は隊員時代に独学で学んだこともあって、割とすぐに思い出せました。とは言っても、まだミミズみたいな文字で、恥ずかしいレベルですが・・・。
隊員時代(2014年)に使った、子ども用のアルファベット教材。
ホワイトボード用のペンで書いて、そのあと消して再度使えるので便利。
先週の授業で練習したノートの一部。
ミミズがたくさんいるし、ミスして消したところ多し(笑)。

発音も、モロッコに4年間住んでいたこともあって、耳と口は割とアラビア語の発音に慣れているつもり・・・。

幸い、動詞の活用とかは、部分的にダリジャと標準アラビア語で被るところがあるので、ダリジャの知識は無駄になっていない気がします。数字もほぼ一緒なので、買い物とかタクシーとかでの交渉にはかなりダリジャの知識が役立ってます。これは隊員時代から感じてますが、やはりアラビア語がちょっとでもできると、現地の人との距離が一気に縮まります。

・・・なんだけど、何しろダリジャと標準アラビア語の間で単語単語が結構違ったりするので、ダリジャでは問題なくスラスラ言えた表現とかも、標準アラビア語になると全く出てこない(というか、なんというのかわからない)・・・。よく、「く〜〜、ダリジャだったらこう言えばすぐに通じるのに・・・!!」と、もどかしい思いをする時も何度もあります・・・。

UNHCRでもスタッフの語学習得をサポートには積極的で、PCや携帯のアプリを使って学習できるソフトウェアのライセンスを格安で提供してくれます。ライセンスには数があるから、学びたい言語や現在の勤務地におけるその言語の必要性などを鑑みて、限られた希望者にライセンスを提供してくれます。私もこの制度を利用してアラビア語学習ライセンス取得に応募したら、なんと運よく選ばれました(現在の勤務地ではアラビア語が話せることが「望ましい」とされているからなのかも)。なので、このソフトウェアのアプリ版を携帯にダウンロードして勉強してます。

まだまだ流暢に標準アラビア語で話せるようになるまでには道のりが長いですが、2年間のJPO任期が終わるまでには、標準アラビア語で日常会話ができるようになりたいものです。

2018/08/31

スーダンのピラミッドへ!/ To the pyramids of Sudan!

スーダンに赴任してから、既にこれまでに2度国外に旅に出ているんですが、実は最近までスーダン国内旅行に行ったことがありませんでした。現時点では仕事でも国内出張はまだ入らずに、首都ハルツームから出たことがなかったので、全くハルツームの外の様子がわからなかったのです。。。

でも、偶然にも同期日本人JPOから、スーダン北部のピラミッド見に行きましょうというお誘いが入り、やっと8月上旬に国内旅行に行くことができました!

・・・とは言っても、スーダンでは外国人の長期駐在者が国内旅行に行くには、政府から発行される移動許可証みたいなのが必要でして、おまけになぜかUNHCRの場合はこの許可証をもらうのに最低2週間ほど必要とされている(同期JPO所属機関では、数日で発行されるというのに・・・)。許可証が降りなかったら悲しいけど今回は行けない・・・と思って、出発前日まで諦め気味だったんですが、うちの事務所の許可証やビザ関連の手続き担当スタッフが頑張ってくれたおかげで、無事に許可証が降りました!

ということで、いざ無事にピラミッドへ出発!今回の目的地は、カリマと呼ばれるところ。首都からは車で5時間以上(約400km)離れたところにあり、ここには世界遺産のジュベル・バルカルとナパタ地方の遺跡群として、神殿やピラミッド群があるのです。

今回は首都ハルツームに事務所を持つ、イタリアンツーリズムというスーダンでは数少ない外国人観光客向けの旅行会社で、合計4人で四駆を2台貸し切り、ガイドさんに同行をお願いしました。仕事の有給をあまり取りにくい時期だったこともあって、1日だけ有給をとって1泊2日の旅です。

首都ハルツームを朝7時頃に出発して、途中ハルツームの郊外で朝食を食べたら、あとはずーっと北部に向かって道を進んだんですが、景色が、私が協力隊時代に住んでいたモロッコ南東部の田舎にとっても似ている・・・。乾燥した砂漠地帯の中に、土壁でできた平家があって、ラクダや羊などの家畜が暑そうにしている・・・。


途中、こんな様子まで(笑)

道中の休憩所にて。モスクが立派。

車でクーラー効いているはずなのに、横から入ってくる太陽のせいもあってか、汗が額から流れ落ちるくらいに暑い・・・・。そして、午後15時くらいに目的地カリマの郊外にあるホテルに到着。
ヌビアの建築様式を用いたゲストハウス(ホテル)


ガイドさんが、まだ陽の位置が高くて暑いから1時間ほど休憩して、16時半に近くのピラミッドなど遺跡を見に行くということなので、それまでホテルの部屋でちょっと休憩。
ホテルの部屋

そしていよいよ観光!まず一つ目に行ったのはこちらのピラミッドとその脇にある王様の墓所。
こんなしょぼい看板しかない・・・。
墓所に入った後に管理人(?)らしき地元のおじさんにチップを1ドルほど渡すのみで、
あとは柵とかも全くない。
入り口も特になく、ただ広い荒野にあるピラミッド。

そしてピラミッドの脇にある王様の墳所(地下)に入ると、天井には天空を表す壁画が。

壁画では、ここに埋葬されていた王様の生涯を描いたストーリだった(棺は現在はもうない)

エジプトでも見られるヒエログリフがこちらにもあった

ちなみに、この遺跡群があるすぐ横に村は、私が協力隊時代に活動していたベルベル人の村に景色がそっくり!
この土壁の廃墟なんて、グルミマ(元活動してた町)のクサル(要塞化された村)にそっくり。

これらの写真をグルミマ出身の人たちに共有したら、
「本当だグルミマにそっくりだ、スーダンもモロッコと似たところがあるんだね」と言っていた。

すごく懐かしい気分になった・・・。

二つ目に行ったのは、ジュベル・バルカルにあるアモン神殿。
後ろの山が、バルカル山(ジュベルはアラビア語で山という意味)。
遠くから見ると、見る角度によって、蛇に見えたりするらしい。
写真右下にあるのが、アモン神殿。


神殿の柱
山の麓にある神殿の横から、山の中に入れて、
中には壁画が掘られている。かなり保存状態が良い。
遠くのピラミッド群の影に沈む太陽

一日の観光が終わって、ホテルに戻って夕食食べて、ちょっとゆっくりしたあとは、カリマの町を散策してみようってことで、ホテルの裏にあるカリマの町に行ってみました。ただ、民家はあるものの、ちょっと郊外にあるせいか道は真っ暗(携帯のライトつけないとよく見えない)、人は全くいない(家の中にはいる雰囲気だけど)、10分ほど歩いてやっとお店やモスクがあるところに着いたけど、スーダンによくある道端のお茶屋さんでさえもなく(町の中心地はさらに歩いたところにあるらしい)、結局引き返してホテルに帰ってきました(笑)。

そして翌日は、世界遺産の遺跡群に含まれるバルカル山のすぐ近くにあるピラミッド群と、ヌリというピラミッド群を観光。
バルカルのピラミッド群。ちなみに大きさはエジプトのよりもかなり小さめです。

ヌリのピラミッド群

ヌリのピラミッド群。過去にはもっとたくさんのピラミッドがあったけど、
石が盗まれて、今はかなりの数が元の形を留めていない。

カリマではナイル川の恵みを利用して、マンゴーやバナナ、グアバなどの農業が盛んだそうで、途中いろんな木が育ってました。ピラミッド群の近くでは、ダンボール箱いっぱいに入ったマンゴーを一箱150ポンド(約500円くらい)で直売してて、その時は買わなかったんだけど、後から買えばよかったと後悔・・・。モロッコの手工芸品販売だと、仲介者が仲介料を多めに上乗せして高値を付けて消費者に売り、生産者の元にはほとんど利益にならないほどのお金しか入らないというアンフェアトレードの仕組みがあるのが現状で、スーダンの農業の場合はどうだかわからないけど、直接生産者から少し高値でもマンゴー買えたほうが、仲介者を通すよりもよかったなって思いました。案の定、ハルツームに帰る途中、生産地から少し離れた道の休憩所で買ったマンゴーは、生産地の値段の倍近くしました。

ということで、初めてのスーダン国内旅行は短かったけど、とても満喫することができました。やっぱり首都の自宅と事務所の間を行ったり来たりしているだけでは、全くフィールドのことが理解できないので、早く地方にも仕事で出張に行きたいところです。