6月30日にモロッコを出国し、7月1日に無事パリ経由で東京羽田国際空港に到着しました。
今考えれば、長いようで短かった2年3ヶ月間のモロッコでの青年海外協力隊生活。
もともとモロッコに協力隊で(かつ村落開発普及員という職種)で行こうと決意したのは、ピースボートに通訳ボランティアとして乗船してモロッコを初めて訪問した、2009年の秋。偶然にも船で同室だったスペイン語の通訳ボランティアの子は、ボリビアで村落開発普及員として2年間活動して帰国したばかりで、彼女のボリビア生活の写真を見せてくれたり、現地での生活の様子、協力隊への応募などについて、色々教えてくれた。その時に、私もやってみたい!と思ったのを覚えている。その時のピースボートのクルーズでモロッコのカサブランカに寄港した時に、マラケシュ観光ツアーの通訳を担当して、モロッコがすごく気に入ったので、もし協力隊で来れるのであればモロッコを第一希望として応募しようと思ったのだった。
そんなこともあって、2012年春に協力隊を受けた時に一発で第一希望のモロッコの村落開発普及員の要請に合格した時は、ものすごく嬉しかった。派遣前もモロッコに再び行けることが楽しみだったし、派遣中にもモロッコかつグルミマという任地で良かった、と思うことは何度もあった。
帰国後、よく「モロッコ生活で何が一番大変だった?」と聞かれると、大体私が答えるのは「言語」。このブログにも何度か書いたけど、私は派遣前訓練で2ヶ月間フランス語の研修を受け、その後モロッコの首都ラバトでは3週間のアラビア語モロッコ方言(ダリジャ)の研修を受けてから、ベルベル語が話される任地へ配属となった。
現地語がベルベル語であるために、現地人同士の会話はほとんどがベルベル語。私と話すときは、ダリジャあるいは話せる人はフランス語。どの言語も習得しようと努力はして、フランス語は今年5月になんとかDELF(仏語能力試験)のB2(仏語検定の準一級くらいに相当)に合格し、ダリジャ習得も頑張ろうとはしたけど、結局は文法もめちゃくちゃなコミュニケーションレベルでずっと活動する程度に留まった。ベルベル語は結局単語レベルしか身につかず、「どうしてあなたはベルベル語話せないの?」と言われることもあった。悔しくて一人で泣くこともあった。
私が主に活動する同僚はフランス語はできなくて、ダリジャかベルベル語しか話せない女性たちが中心だったために、活動で本当に伝えたいこと(私の想いなど)や説明が難しいこと(会計管理など)を同僚にわかってもらうには苦労したし、ストレスがたまった。活動の最後の方でも自分の言語能力不足に悩まされることもあった。
でも、ベルベル語の話される任地だったからこそ、ベルベル人というモロッコでも一部の地域にしかいない民族の文化に馴染んだり、ベルベル刺繍を生かした手工芸品の開発に携わることができた。そして、田舎の町だったこともあってグルミマの人は本当に優しく、彼ら彼女らの優しさに救われることも何度もあった。だから、大変なこともあったけど、グルミマで2年3ヶ月間活動できて本当に良かったと思う。
このような背景もあって、いよいよモロッコでの生活を終えて日本に帰るということには寂しさもあったけど、とりあえず私がグルミマで出来ることはやったし、これまでに一生懸命活動してきた分、少しは日本でゆっくり休みたいなーという気持ちにもなっていたので、今は日本に無事に到着し、協力隊の生活を終えることが出来てほっとしています。
帰国後研修でJICAのスタッフが言っていたような、帰国後ショック(?)みたいなのも以外になく、わりとフツーに日本の生活にも順応できているような気もするけど、まだ帰国して一週間も経っていないので今はまだ何もかもが楽しい時期なのかな。とりあえずは、しばらく会っていなかった友人や家族とゆっくりしながら、少しずつ就活もしないといけないなーと言ったところです。
協力隊生活は終わりですが、このブログは引き続き時々更新しようかなと思っているので、モロッコにいた時程は面白い記事は書けないかもしれませんが、興味ある方は引き続きよろしくお願いします!
今考えれば、長いようで短かった2年3ヶ月間のモロッコでの青年海外協力隊生活。
もともとモロッコに協力隊で(かつ村落開発普及員という職種)で行こうと決意したのは、ピースボートに通訳ボランティアとして乗船してモロッコを初めて訪問した、2009年の秋。偶然にも船で同室だったスペイン語の通訳ボランティアの子は、ボリビアで村落開発普及員として2年間活動して帰国したばかりで、彼女のボリビア生活の写真を見せてくれたり、現地での生活の様子、協力隊への応募などについて、色々教えてくれた。その時に、私もやってみたい!と思ったのを覚えている。その時のピースボートのクルーズでモロッコのカサブランカに寄港した時に、マラケシュ観光ツアーの通訳を担当して、モロッコがすごく気に入ったので、もし協力隊で来れるのであればモロッコを第一希望として応募しようと思ったのだった。
そんなこともあって、2012年春に協力隊を受けた時に一発で第一希望のモロッコの村落開発普及員の要請に合格した時は、ものすごく嬉しかった。派遣前もモロッコに再び行けることが楽しみだったし、派遣中にもモロッコかつグルミマという任地で良かった、と思うことは何度もあった。
帰国後、よく「モロッコ生活で何が一番大変だった?」と聞かれると、大体私が答えるのは「言語」。このブログにも何度か書いたけど、私は派遣前訓練で2ヶ月間フランス語の研修を受け、その後モロッコの首都ラバトでは3週間のアラビア語モロッコ方言(ダリジャ)の研修を受けてから、ベルベル語が話される任地へ配属となった。
現地語がベルベル語であるために、現地人同士の会話はほとんどがベルベル語。私と話すときは、ダリジャあるいは話せる人はフランス語。どの言語も習得しようと努力はして、フランス語は今年5月になんとかDELF(仏語能力試験)のB2(仏語検定の準一級くらいに相当)に合格し、ダリジャ習得も頑張ろうとはしたけど、結局は文法もめちゃくちゃなコミュニケーションレベルでずっと活動する程度に留まった。ベルベル語は結局単語レベルしか身につかず、「どうしてあなたはベルベル語話せないの?」と言われることもあった。悔しくて一人で泣くこともあった。
私が主に活動する同僚はフランス語はできなくて、ダリジャかベルベル語しか話せない女性たちが中心だったために、活動で本当に伝えたいこと(私の想いなど)や説明が難しいこと(会計管理など)を同僚にわかってもらうには苦労したし、ストレスがたまった。活動の最後の方でも自分の言語能力不足に悩まされることもあった。
でも、ベルベル語の話される任地だったからこそ、ベルベル人というモロッコでも一部の地域にしかいない民族の文化に馴染んだり、ベルベル刺繍を生かした手工芸品の開発に携わることができた。そして、田舎の町だったこともあってグルミマの人は本当に優しく、彼ら彼女らの優しさに救われることも何度もあった。だから、大変なこともあったけど、グルミマで2年3ヶ月間活動できて本当に良かったと思う。
このような背景もあって、いよいよモロッコでの生活を終えて日本に帰るということには寂しさもあったけど、とりあえず私がグルミマで出来ることはやったし、これまでに一生懸命活動してきた分、少しは日本でゆっくり休みたいなーという気持ちにもなっていたので、今は日本に無事に到着し、協力隊の生活を終えることが出来てほっとしています。
帰国後研修でJICAのスタッフが言っていたような、帰国後ショック(?)みたいなのも以外になく、わりとフツーに日本の生活にも順応できているような気もするけど、まだ帰国して一週間も経っていないので今はまだ何もかもが楽しい時期なのかな。とりあえずは、しばらく会っていなかった友人や家族とゆっくりしながら、少しずつ就活もしないといけないなーと言ったところです。
協力隊生活は終わりですが、このブログは引き続き時々更新しようかなと思っているので、モロッコにいた時程は面白い記事は書けないかもしれませんが、興味ある方は引き続きよろしくお願いします!
無事に帰国されたのですね。おかえりなさい。色々と大変なこともあったと思いますが、このblogを見る限り、とても充実したモロッコ生活だったのだろうな・・・と想像しています。お疲れ様でした。とりあえず今はまだ帰国されたばかりということなので、ゆっくり休んでくださいね。
返信削除元モロッコ隊員より
コメントありがとうございます。私にとって、モロッコでの2年3ヶ月間の生活はとても充実していたと思います。今はまだあまり振り返る時間がないですが、改めて写真を整理したりしていると、確かに私はあの地でモロッコの人々と時間を共有したんだなということを実感します。この経験を今後にも生かしていきたいと思います。
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